年齢を重ねた夫婦で「空気のような存在」という言葉を聴きますが、ぼくはこの言葉には疑問を拭えません。
たとえ夫婦でも分かり合えることなどない
空気のような存在というのは、酸素を吸ってはくように「当たり前」になってしまっているということです。
空気のような存在と聴いた時、一般的には「お互いのことを信用し、何も言わずとも以心伝心できている関係だ」という風に捉えられがちです。
しかし、ぼくはたとえ夫婦でも「人間同士が分かり合えることなどない」とおもっています。
人の気持ちというのはフワフワしていて、絶えず気分で変動します。
その気持ちという極めて不完全な感情で人間同士は繋がっています。
人は関係が近ければ近いほど、ちょっとしたことでイラ立ちます。
人と人が継続して繋がっていくには、相手に気を配ったり、絶えずアプローチを続けることです。
どんな関係であろうとも、何もせずに気持ちが繋がっていることなどありません。
周囲から当たり前のように仲が良いと見える夫婦は、常に当たり前にならないように工夫し続けているのです。
それは不定期でも旅行に連れて行ったり、相手に感謝を直に言葉で伝えたり、プレゼント選びにも相手の好みをしっかり踏まえたモノを贈ったり、様々な方法があるとおもいます。
そして、そんな工夫を絶えず続けている夫婦はお互いのことを「空気のような存在」という表現はしないとおもうんですよ。
当たり前であることは相手に無関心であるということ
ぼくは誰かの存在を当たり前とおもってしまうことほど怖いことはないとおもってます。
当たり前は、相手のことを無関心であると言ってるのと一緒です。
どんなに長年続いた夫婦でも、恋人でも、友人でも相手のことを「当たり前」とおもってしまうと、その関係は確実に怠慢な関係であり、何ら刺激的ではありません。
そのような関係のまま一緒にいてもお互いにとってツマラないですし、生産的ではないのです。
ぼくは人間関係においてだいぶ好みが激しいですが、好きになった相手への敬意を忘れないことは意識しています。
相手との関係を維持することは、相手へのリスペクトを言葉や態度で繰り返し示すことが重要です。
「当たり前」などこの世に存在しません。
人間関係が刺激的であるには、相手と向き合い、絶えず相手に情熱を注ぎ込むことです。
そして、一番大切なのは感謝を忘れないことです。
わっしょい!