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今日はどんな本音を語ろう

オピニオン記事やライフハックを中心に様々な記事かいてます。

Today’s Real intention

Opinion and Lifehack

【コラム】『ぼくは楽しい』 Vol.1 人生はじめての転機

コラム ぼくは楽しい オピニオン

ぼくは小学校4年生から卓球を習っていた。

 

卓球を習うキッカケはとてもシンプルだ。

当時ぼくの住んでいる石川県津幡町では、毎年冬に町の12個の小学校を集めて「町子連卓球大会」というスポーツイベントが行われていたのだ。

 

その時期が近づくとぼくの小学校では、卓球台が廊下に並べられ、昼休みになると卓球台の取り合いになり、みんな夢中で練習をする。

それだけ卓球の人気があり、うまいのは一種のステータスだった。

そして、この町子連卓球大会に出場できるのは選び抜かれた選手だけだ。

 

ぼくはその選手になって、単に目立ちたかったのだ。

幼少期の理由なんてそんな単純なモノ。

そして、その単純な理由は、大人になってからも大切だとぼくは感じている。

 

ぼくは卓球を習いはじめると、卓球にドンドンのめり込んでいった。

練習時間が終わっても、毎回練習場に残って遅くまで練習し続けた。

いつも迎えに来てくれる母を待たせ、迷惑をかけっぱなしだった。

その練習の甲斐あってか、小さな大会では優勝や準優勝できるレベルにもなった。

 

そして、迎えた小学校6年の町子連卓球大会では、決勝まで進んだ。

しかし、当時一緒の教室で習っていた梅田くんに惜しくも負けて準優勝だった。

目立つには目立てたけど中途半端な結果で、ぼくはとても悔しかった。

 

ぼくは中学に進学しても当然卓球部に入ろうとおもっていた。

ぼくの進学予定の津幡中学校は卓球で男女共に県ナンバー1の強豪校だった。

ぼくは中学で「卓球の全国大会に出場したい」とおもっていた。

 

しかし、おもわぬ問題が起きる。

 

津幡中学校がぼくらの代から津幡中学校と新設の津幡南中学校に分離するというのだ。

 

理由は、生徒の人数が多すぎて「女子トイレの数が足りなくなったから」。。。

(津幡中学校は当時全国で3位のマンモス学校だった。)

 

ぼくは学区的に新設の津幡南中学校に進学となる。

津幡南中学校にも卓球部はあった。

 

しかし、問題は津幡南中学には津幡中学の卓球部レギュラーはほとんど移らない点だ。

当然、津幡南のレベルは低い。

ぼくはレベルの低い卓球部ではどうしてもプレイしたくなかった。

ぼく自身が埋もれてしまうとおもったからだ。

 

津幡中学に進む方法は残されていた。

当時、津幡中学の学区内に親戚が住んでいたので、その親戚の住所を借りればいい。

ただ、ぼくには恐れていたことがある。

 

「もし津幡中学に行ったら、友達誰もできないんじゃないか?」

 

ぼくの小学校はとても小さな学校で同級生が19人しかいなかった。

しかし、ぼくはその19人しかいない中でも浮いた存在だった。

ぼくはどこか変わり者で人とコミュニケーションを取るのが苦手な少年だったのだ。

 

こんなぼくがたった一人で人数の多い津幡中学校に行ったらますます浮いてしまう。

思春期の頃の「友達がいない」というのは一番大きな悩みだ。

 

ぼくは、結局友達ができないかもしれないのが怖くて大好きな卓球を諦め、津幡南中学校に進学した。

 

卓球部に入るつもりのないぼくは、どの部活に入ろうか悩んだ。

ぼくには卓球しか自信のあるスポーツが無かったのだ。

サッカーはリフティングも全然できない、野球も三塁から一塁にボールが届かないほど肩が弱い。

 

ぼくには本当に卓球以外何もなかった。

そして、ぼくはこの「何もないこと」にあるイメージが湧いた。

「卓球以外何もないなら、道具を全く使わずにできるスポーツをやろう。」

ぼくは瞬時にある部活動を思い浮かべた。

 

「陸上ならただ走るだけじゃないか」。

 

ぼくは足も遅かったのだが、持久力には少しだけ自信があったので長距離に入部することにした。

 

ぼくの入った陸上部の長距離は、3年生が2人、2年生が3人、そしてぼくらの代が3人と小規模だった。

しかし、先輩も優しくて、ぼくは毎日走ることに明け暮れた。

 

ぼくはたちまち陸上に取り憑き、陸上雑誌も毎月購入して読みふけるのが日課になった。

それは、当時の陸上部の恩師に「研究熱心な選手です」と評されるほど。

ぼくは文字通り「陸上バカ」だった。今でも陸上が好きで試合結果を逐一チェックしている。

 

ちなみに、ぼくは津幡南中学に進学してもクラスに馴染めず友達が全然いなかった。

毎日の授業の時間も休み時間も退屈で、早く部活の時間になってほしいとずっとおもっていた。

もしかしたら、この寂しさが余計ぼくを陸上に取り憑かせたのかもしれない。

 

「どうにかして足が速くなりたい」。

そればかり考えていた。

 

ぼくらの中学は創部1年目の県駅伝で女子が優勝、男子が4位の成績を収めた。

2年目の県駅伝でも女子が優勝、ぼくら男子も優勝し、男女アベックで全国駅伝出場を決めた。

そして、ぼくが最終学年となる3年目も男女共に県駅伝で優勝し、2年連続アベックで全国駅伝に出場するという快挙を成し遂げたのだ。

 

特に3年目は、男子はライバル校の田鶴浜中学校に勝てる確率は20パーセントほどしかないと言われていた。

田鶴浜には福田くんという全国トップクラスの選手がいて、彼をはじめ持ちタイムで圧倒的にぼくらを上回っていたのだ。

その下馬評を覆しての優勝だったから嬉しさもひとしおだった。

 

そして、全国駅伝も終わり中学を卒業する頃、ぼくはあることに気がついた。

「結局、ぼくは卓球でなくとも全国大会に出場できたじゃないか」

 

ぼくにとって陸上は未知との闘いだった。

卓球なら全国に出れた自信はあるけれど、陸上では全く予想がつかなかった。

「持久力に少しだけ自信がある」。その小さな自信だけが頼りだったのだ。

 

人はよく自分の別の人生を想像する。

ぼくも陸上をはじめた当初は、卓球を選んだ方がよかったかもしれないとおもっていた。

しかし、いざ3年間やってみると目標としていた全国大会というラインに到達していた。

 

ぼくはこの経験から、かすかな自信しかないことでもそれを信じて磨いていけば、それなりの結果は出せることを知った。

 

未知に挑戦することは恐い。

しかし、やってみたら意外と何とかなるモノだ。

途中で「向いてない」と本当におもえたら、それは撤退すればいい。

 

ぼくは今だに未知なモノへの挑戦をし続けている。

未知なモノを追求し、ドンドン知っていく過程が面白いのだ。

この性分は、卓球から未知の陸上に移った経験が大きいのだとおもっている。

 

ぼくにとって卓球から陸上に転向したのは人生はじめての転機だ

人は転機と自ら言える出来事から、多くを学ぶ。

 

ぼくは今でも挑戦し続けている自分が好きだ。

 

ぼくは楽しい。